2008年1月25日金曜日

「立場の違い」では片付けられない

2児殺害公判 きょう論告求刑【YOMIURI ONLINE】
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news/20080124-OYT8T00811.htm

検察側 厳刑求める方針

 藤里町の連続児童殺害事件は25日、秋田地裁(藤井俊郎裁判長)で、殺人と死体遺棄の罪に問われた同町、無職畠山鈴香被告(34)の論告求刑公判を迎える。長女彩香さん(当時9歳)への殺意の有無が最大の争点となる中、検察側は、畠山被告が彩香さんに抱いていた嫌悪感が極限に達した犯行とし、さらにわずか1か月余りのうちに起きた近所の小学1年米山豪憲君(当時7歳)殺害の残忍性も指摘し、厳刑を求める方針とみられる。

■殺意の有無
 彩香さんの事件を巡り、弁護側は、彩香さんとの肌の接触が苦手だった畠山被告が、同町内の大沢橋の欄干に座っていた彩香さんに抱きつかれそうになった際、思わず左手で払った事故だったと主張。畠山被告は被告人質問で、「(彩香さんが)覆いかぶさった形になって怖かった」と説明した。

 畠山被告が彩香さんと2人で橋の上にいたのを、事件直前に車で通りがかった女性が目撃した証言があるが、殺害と結びつく直接証拠はない。畠山被告の弁護人は公判前整理手続きのさなか、関係者に対し、「彩香ちゃんの事件は何も(殺人の)証拠がない」と自信をのぞかせていたという。

 畠山被告は捜査段階で殺害を自供していたが、公判で否認に転じ、自白の任意性を争う展開になった。検察側は、地域住民や元交際相手らの証人尋問で、畠山被告が日ごろから彩香さんの育児を怠り、疎ましく思っていたとうかがわせるエピソードを引き出し、殺意が芽生えるまでの“序章”を浮かび上がらせた。

 さらに、畠山被告の被告人質問で、彩香さんが橋の欄干に座るまでのやり取りの不可解さも追及。魚を見たいとせがんだ彩香さんに対し、「(欄干に)上らないなら帰るよ」と言ったことについて、検察官が「帰らせようというより上らせようとしているふうだ」と指摘するなどし、矛盾点を突いた。

■自白の任意性
 また、検察官が怖くて不本意な供述調書にも署名したという畠山被告の主張に対し、検察側は、留置記録をつまびらかにし、畠山被告が「(検察官が)ネクタイが4日も同じで笑いをこらえるのが大変だった」などと語った内容を明かし、畠山被告の供述に一貫性がなく、信用できないとの印象づけを図った。

 弁護側が不同意としていた彩香さん殺害を認めた供述調書について、裁判長は取調官の証言などを基に、「任意性を害するような心理的動揺を与えたといえない」として証拠採用した。

■健忘の有無
 公判と同時並行で進められた精神鑑定で、担当した青森市内の医師は、彩香さんが橋から転落した際の畠山被告の健忘を認め、「転落直後に発生し、期間は直前直後の数秒間で、質的には重篤」と結論づけ、弁護側の主張に沿う格好となった。

 一方、検察側は、捜査段階に行った簡易精神鑑定をもとに、転落直後に記憶は失われていなかったと判断し、畠山被告が帰宅後に近所を尋ね回った行為が隠ぺい工作にあたるとしている。畠山被告と同じ団地の住民や小学校教諭が証人として出廷し、畠山被告が彩香さんが転落した直後、「(彩香さんは)出かける時に何も言っていなかった」「友人の家に遊びに行くと言っていた」などと説明を変遷させていたことを明らかにした。

 検察側は、豪憲君の両親らが「死刑しか考えられない」などと強い処罰感情を訴えていることなどから、2人の幼い命を奪った身勝手で理不尽な犯行と指弾する方針とみられる。弁護側は最終弁論で、彩香さんへの殺意を否認し、豪憲君殺害当時は心神耗弱状態だったとして減軽を求めるとみられる。

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 犯罪や事故の被害者遺族の心情に、「真実を明らかにしてほしい」という思いがあります。その他にも、「加害者に刑に服してほしい」「賠償してほしい」などという思いもあるでしょうが、それと比較しても、真実を欲する気持ちというのは大きなウエイトを占めるであろうことは間違いないと思います。

 そういう感情を実現するのが、正義であり、司法が果たすべき役割であろうと思いますが、残念ながら、そういう思いを満たすのには、いまだに不十分であるといわざるを得ません。

 犯罪を犯したものにも、弁護士を立て、弁論を通じて被告の利益を図るということはとても大切なことです。そして、その弁論がどんなものであれ、耳を傾けなければなりません。

 こうした審判過程をたどるのは、ひとつには被告の利益を守るということですが、もうひとつは、この過程を経ることで、真実を明らかにしていこうということだと思います。

 ところが、実際の公判過程を見ると、被告の身勝手な言い訳を垂れ流されることに終始し、真実はどんどん遠のいていってしまうように思います。

 被告の利益を最大に考えると、真実を隠蔽し、ミスリードし、違うストーリーとして上書きしたほうが良い、という弁護側の戦略なので、それを罰することはできません。

 罰することはできませんが、腑に落ちない思いが残ります。

 被告は反省の念を声高に訴えますが、本当に反省しているのならば、真実を明らかにする努力をして、審判に向き合うことが不可欠あると思います。

 そして、そういう姿勢がない被告の様子が、様々な裁判で現れるたびに、「あー、『反省の念』というのは減刑を求めるためにあるのだな」と、本来の反省とは違う意味のものに感じられてしまいます。これは「心神耗弱」とかも同じです。

 被害者遺族は、愛する家族を失ったばかりか、その行為の正当化や言い訳を聞かされ、二重三重の苦しみを味わうことになります。その心情を推し量ると、気の毒でなりません。

 加害者が、反省していようが、心神耗弱状態であろうが、更正の可能性があろうが、未成年だろうが、殺された被害者は絶対に帰ってきません。

 司法の厳罰化が進む、みたいな言い方がされますが、裏返せば、こうした形骸化した減刑のための儀式が、いかに遺族を苦しめ、国民に社会正義の不在を感じさせてきたかの証座であろうと思います。

 光市の事件以降、被害者遺族が積極的に発言する事件が増えてきました。そして、そういう事件が国民の関心を呼び、裁判のやりとりが、一般の感覚とズレていることを感じているはずです。

 司法全体は国民の感覚を受けて、変容してきているように思いますが、そういう空気に一番鈍感なのが、弁護士のように感じます。やたらと精神鑑定にかけたり、と減刑に汲々としますが、そういうパフォーマンスを繰り返し、稚拙な作文を朗読しているようでは、ますます厳罰を求める傾向は高まっていくのではないでしょうか。

 一般の感覚には通用しないような法廷戦術を駆使すれば、仮にどういう判決を受けるにしても、被告の名は卑劣な犯罪を犯したあげく、身勝手な主張で自分を正当化し続けた悪人という汚名を残すことになります。それが本当に被告にとって良いことなのでしょうか。


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