2008年2月16日土曜日

お蔭様。

【溶けゆく日本人】蔓延するミーイズム(7)疲弊する医療現場
【産経ニュース】2008.2.13 08:04
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/080213/sty0802130804004-n1.htm

■権利を名乗る身勝手

 昨年末、東京都内の病院に勤める産婦人科医(38)は、繋留(けいりゅう)流産で手術日を決めたばかりの患者(35)からの電話に一瞬、返す言葉を失った。

 「昨日決めた手術日ですけど、仕事の都合がつかないので変えてください」

 繋留流産とは、胎児に異常があって育たず、お腹の中で死んでしまうこと。そのままにしておくと、出血したり細菌感染しやすいので、死んだ胎児を子宮から取り除く手術をしなければならない。緊急手術が必要なほど切迫した状態ではないが、患者の体のためにはなるべく早く手術をした方がいい。

 年末ということで、手術の予定がかなり立て込んでいた。それでも幸い翌日に空きがあったので翌日の手術を提案したが断られ、1週間後に決めた。もちろん患者もそのとき「この日なら大丈夫」と承諾、スタッフの手配もすませたところだった。

 患者は大手企業に勤める会社員。確かに年末は仕事が忙しいとはいえ、それを承知で手術日を決めたはずだった。

 「絶対に(手術日は)変えられないんですか」と食い下がる患者に、産科医が「すべての患者さんの手術日程を変えないと無理です」とこたえたところ、「じゃあ、そうしてください」との言葉が返ってきた。

 もちろん、すべての患者の手術日程を変えられるわけがない。また、年明け後なら新たに手術日が組めるが、それでは患者の体が心配だ。産科医が改めて「つまり、手術日を変えるのは不可能ということです」とはっきり告げると、「それなら別の病院で手術するからいいです」と、電話をたたききられた。

 この患者は他の病院を数カ所あたったものの、手術を引き受けてくれる病院がなかったことから、結局、この産科医のいる病院で当初決めた日程で手術を行った。

 産科医はいう。

「結果としては無事手術できてよかったのですが、診察や治療以外の対応にこちらはへとへとです。産科医不足がいわれ、実際にみなぎりぎりの状態で仕事をしているのに、わがままな患者に振り回されると、もうやってられないという感じです」

◆◇◆

 都内の別の病院に勤務する産科医(35)も、患者の理不尽な要求にとまどっている。

 1月半ばのことだ。切迫早産で入院していた40代後半の妊婦から、「外出を許可してほしい」と呼び出された。輸入品を扱う店を経営しており、店のことが気になって外出したいのだという。

 この患者は、長年の不妊治療の末にようやく初めての子供を妊娠したのだ。このときは38週で、絶対安静が必要な状態だった。産科医が「子供の命のために、もう少しだけがまんしてください」と説明しても、「私の体のことは私が一番よく分かっている」と、がんとして聞かない。患者の夫に説得してもらおうと「今が一番大事な時期ですから」と説明したが、夫も「妻の言うとおりにしてあげてください」と言うだけ。

 外出されると治療に対する責任がもてなくなることから、「外出したいなら自己退院してもらうしかありません。その代わり、もううちでは診察できません」と告げると、「退院するつもりはない」と言い張り、日中に勝手に外出し、夕方戻ってくるという生活を続けた。

 「子供が本当にほしいから不妊治療をしていたのではないのでしょうか。生まれてくる子供のために、数週間仕事を休むことが、そんなに難しいのでしょうか」と産科医は頭を抱える。命と仕事の重さの違いすら、分からなくなっているのだ。

(後略)

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川上未映子の「乳と卵」を読みました。

こういうものに賞をやるから文学が衰退していくのだろうなと思いました。

純文学という作法に拘泥するあまり、その文法を知らない人からすると、なんでこんな回り道をするような文章を書くのか不思議でならないのですが、そうすることで、文壇みたいな閉鎖的な構造を保持しようとしているのでしょう。そんなややこしい手法を使わなくても、良い小説はいっぱいあるのに。

もうひとつが、時代の移り変わりです。
舞台が東京であるにもかかわらず、銭湯であったり、近所の汚い中華料理屋だったりと、まるで「70年代の小説です。」といっても差し支えないくらいの風景描写です。登場人物は電車に乗ってやってくるわけですが、この描写を見る限り、絶対Suicaなんか使っていないんだろうな、と思わせる空気がありました。

なんで、「乳と卵」のことを持ち出したかというと、純文学と我々の生活の間にある隔たりは、ひとつには先に述べた、文壇とよばれる、出版業界を取り巻く事情の閉鎖性もある、と思うのですが、もうひとつは、現代という時代が、あまり心象風景を語るのにマッチしていないように思います。

今も、昔も、人は恋をし、病気にかかり、誰かと別れを告げ、誰かの死を見送る。そういうことはいつの時代も変わらないはずで、そういうことに直面した人間の心の移り変わりが文学であると思うのですが、そういう風景が「六本木ヒルズで」とか、「とっておきのスイーツが」とか「無線LANの不調により」とか、「googleで調べたら」とかというものと、いまいちマッチしない。

 安易に手に入れたものよりも、苦労して手に入れたもののほうに愛着を感じたりするのが人間だと思いますが、そういう過程にこそ、心情の変化があったり、そこに人柄を見出したり、具体的なイメージが鮮明になったりします。

 「乳と卵」で言えば、普通なら、ググればすぐ終わるはずなのに、豊胸手術のためのパンフレットの山をわざわざ東京まで持ってくる登場人物の行動にこそ、そのキャラクターを位置付ける何かが生まれるのです。

 Michael Crichton は、"Lost World"の中で、「文明が発達したとして、何がおきたのか。自動洗濯機や食器洗い機、様々な機械が発明され、便利になったというが、そういう現代人であっても、毎朝早くに起きて仕事をし、夜遅くまで家事をするというのは産業革命前の生活と変わらない。科学が進化したところで、人間の生活はまったく楽になっていない」ということを書いていました。

 携帯電話が生まれてから、他人の時間の流れにゆだねることが多くなっています。また、ニーズの多様化、サービスの多様化、それを換金して消費する文化というものが確実に世の中にあって、それが加速しているようにも感じます。

 時計の針を戻すことはできませんし、純文学の中の世界が素晴らしいとも思いませんが、調子が悪いから病院に行き、手術が必要と言われたから日取りを決め、別の仕事が入ったから、手術を伸ばし、と入ってくる情報に右往左往するような人というのには滑稽さを感じますし、他人を巻き込んでそれを押し通そうとする人には、やさしさがありません。

やさしさとはイマジネーションです。周りの人の苦労に思いを致し、感謝とねぎらいをわすれないようにしていきたいと思います。

 



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