2008年2月8日金曜日

ポジティヴに舵を切ろう

頑張れば何でもできると思うのは傲慢
日経アソシエ 山田太一 氏
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/backno/BA1127.html

「あきらめるな」とよく言います。だから誰でもあきらめさえしなければ夢がかなうような気がしてきますが、そんなことはあまりない。頑張れば何でもできると思うのは幻想だと僕は思う。成功した人にインタビューするからそうなるのであって、失敗者には誰もインタビューしてないじゃないですか。

人間は、生まれ落ちた時からものすごく不平等なものです。国籍も容姿も選べない。親も子供も選べない。配偶者だって、2、3の候補の中から選ぶのがせいぜいで、それでもいいくらいのものでしょう?つまり限界だらけで僕らは生きているわけで、そんなにうまくいかないのが普通なんです。その普通がいいんだと思わなければ、挫折感ばかり抱えて心を病んでしまう。

僕は一握りの成功者が「頑張れば夢はかなう」というのは傲慢だと思っています。多くの人が前向きに生きるには、可能性のよき断念こそ必要ではないでしょうか。

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 一昔前、「アメリカン・ドリーム」に習って、ヒルズ族に代表されるような、「ジャパニーズ・ドリーム」の体現者みたいな人が巷間にあふれてました。

「金持ち」がいわゆるエスタブリッシュメントな階級だけでなく、ホリエモンのように一般的な家系から、大金持ちが輩出されるようになり、一見すると機会平等の世の中っぽくもありました。

 しかし、記事が指摘するように、成功者にスポットライトが当てられると同時に、同じようにがんばっても成功できなかった人々というのも存在します。

 成功者にスポットを当て、「世の中は機会平等で実力だけがものを言う」みたいな風潮がありましたが、逆を言えば、成功者でない人は「実力がなかった」で片付けられてしまいます。

 実際には、スタート資金が無かった人、教育が十分に受けられなかった人、運が悪かった人(重要な時期に大病をわずらったり・・・)と、実力では片付けられない側面もあります。

紙屋研究所

というサイトで、例によって山田昌弘教授の「希望格差社会」の一節がまとめられていました。

山田昌弘『希望格差社会』(抜粋)

戦後教育システムはゆるやかな差別・選別制度だった 社会学者である山田自身がこの本の中で、教育学者たちが語る人間の発達の可能性の称揚などをウザく思っていることを吐露しているのだが、たしかに山田の論調はきわめて冷静――というか冷酷である。 人がぞっとするようなことを平気でいう。

 その一つが、これだ。 戦後日本の教育システムとはゆるやかな差別・選別のシステム、パイプラインであり、受験のなかで「過大な希望」をリスクなしにあきらめさせていくのに適した制度だったという。どの学校へいけばどれくらいの人生が歩めるかというモノサシになっていたと山田は主張する。


 ところが、山田によれば、現代ではこのパイプラインが疲労し、漏れが発生している。

 たとえば、工業高校を出れば、昔は大企業の工場勤務という道があったが、今はそこの工場で正社員として働ける者は少数である。短大・女子大を出た女性も、一般職→結婚というコースが見えにくくなり、派遣への置き換えと、結婚相手たる男性正社員の数の激減と不安定化がおきている。――これが山田の指摘する現実だ。

 「ゆるやかな選別」というのは、医者になりたかったら医学部で勉強する。医学部に入るには金が必要だから、ある程度、余裕がある家庭でなければ、なることはできません。

つまり、家柄や資金といった、本人の実力に関係ないところで十分に選別されていたのです。

 上の論旨は、選別のふるいに残ることができたエリートでさえも、成功が約束されているわけではなくなった。(パイプラインの疲労)というわけです。

 まぁ、自分の境遇を嘆き、「アレが悪い、コレが悪い」と言っているのも、貧乏人の僻みみたいでかっこ悪いですが、たまたまめぐり合わせで成功して、「オレの実力だ」なんてふんぞり返っているのも、みっともないと思います。

 「可能性の断念」なんて綺麗な言い回しはしませんが、頭を切り替えてポジティヴに生きるほうがいいのでは、という意見には一定の共感ができます。





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