2008年2月12日火曜日

勝馬に乗ろうとするマスコミ

割りばし事故:遺族敗訴「予見不可能」 東京地裁判決
【毎日jp】2008年2月12日http://mainichi.jp/select/today/news/20080213k0000m040107000c.html

 東京都杉並区で99年、のどに割りばしが刺さって死亡した杉野隼三(しゅんぞう)君(当時4歳)の両親が、杏林大付属病院(三鷹市)を開設する学校法人杏林学園と担当医に8960万円の賠償を求めた訴訟で、東京地裁は12日、請求を棄却した。加藤謙一裁判長は「割りばしが刺さったことによる脳損傷を予見することは不可能だった」と担当医の過失を否定した。両親は控訴する。

 担当医の根本英樹被告(39)は業務上過失致死罪に問われ、06年3月の東京地裁判決は無罪としたものの、適切な診察を怠った過失があると認定していた。同じ証拠に基づきながら刑事裁判と民事訴訟で判断が分かれ、両親はより厳しい結論を突き付けられた形となった。

 判決は、根本被告が適切な問診をしていればより重症であることが判明した可能性があると指摘したが、それまでに同様の症例がなかったことや病院搬送中の記録などを基に「髄液漏出や神経学的異常は認められず、当時の医療水準に照らし脳損傷の発生を診断すべき義務はない」と判断した。脳損傷の診断があった場合の救命可能性についても認めなかった。

 両親は「十分な診察を怠った」と主張して、00年の隼三君の誕生日(10月12日)に提訴。根本被告の過失に加え、チーム医療体制を構築していない不備や隼三君死後の説明の不適切さなど、病院側の対応も問題としたが、判決はいずれの主張も退けた。

 刑事裁判で1審判決は、根本被告のカルテ改ざんまで認めたが「救命可能性が極めて低かった」と判断して無罪を言い渡した。検察側が控訴し審理が続いている。【北村和巳】

 ▽東原英二・杏林大付属病院長の話 主張が認められほっとしている。改めて隼三さんのご冥福をお祈りする。

【ことば】割りばし死亡事故 東京都杉並区で99年7月10日、母らと盆踊り大会に来ていた隼三君が、綿菓子の割りばしをくわえたまま転倒。杏林大付属病院に運ばれ、担当医は5分間の診察で傷に薬を塗っただけで帰宅させ、隼三君は翌朝死亡した。司法解剖で7.6センチの割りばし片が脳に残っていたことが判明、死因は頭蓋(ずがい)内損傷群とされた。

 ◇「あまりに意外な判決 納得いかない」父親
 判決後に会見した隼三君の母文栄さん(50)は「必ず良い報告ができると約束して家を出てきたが、隼三に掛ける言葉すらない」とハンカチで涙をぬぐった。父正雄さん(56)は「あまりに意外な判決で動揺している。過失を認めた刑事裁判の証拠を無視しており納得いかない。明らかな医療ミスでないと許されるのか」と憤った。

 隼三君は「特殊なけが」と高度な設備が整った杏林大付属病院に搬送された。文栄さんは「開業医の方がするような治療もなく、警察が捜査したのに報告書もない。こうした病院のあり方に判決が言及してくれると信じていたが、残念」と語った。

 提訴から7年4カ月。事故当時は小学6年だった長兄で大学生の雄一さん(20)は、高校で教べんを取りながら死の真相を問い続ける両親の姿を見つめてきた。「父と母の苦労が否定された感じで悔しい」と話した。

 ウルトラマンが大好きだった隼三君は事故直前の七夕で、短冊に「正義の味方になって悪と戦いたい」と文栄さんに書いてもらった。文栄さんは「最後には隼三を正義の味方にしてあげたい」と話した。【北村和巳】

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まずは、少年のご冥福を祈ります。

 「わりばしが脳にささったことが予見できた。」ということが証明できなかったのであれば、敗訴という判決を受け入れるしかありません。遺族の方の深い悲しみには共感しますが、医師とて、すべてを予見することは不可能ですから。

・根本被告が適切な問診をしていればより重症であることが判明した可能性がある。
・チーム医療体制を構築していない不備(は病院の責任。)
・隼三君死後の説明の不適切さなど、病院側の対応も問題

と記事にはありますが、4歳で、怪我をして気が動転している幼児に問診が不十分だと言われても、どこまでやれば十分なのかわかりません。チーム医療体制がないなら、受入拒否すればよかったのでしょうか。

現在の医療状況とは違うので、一概に判断はできませんが、近くで様子を見ていたはずの親でさえ、割り箸が折れているのに気づかなかったのですから、「医師なら気づいて当然」というのは少し違う気がします。

 とは言うものの、「説明が不適切であった」という部分と、「カルテを改ざんしていた」というのは、医師にも問題があったのだろうと思います。特に、「担当医は5分間の診察で傷に薬を塗っただけで帰宅させ、隼三君は翌朝死亡した。」という下りを読む限りでは、本来最も重要な、患者との信頼関係を築けなかったという点でも医師の力不足という感が否めません。

 感情の上でも、理屈の上でも、うまく着地点を見出せなかったために、裁判ということになったのでしょうが、裁判の公判では、法的な意味での理屈の着地はできるのでしょうが、だからと言ってお互いが納得できる形になるとは限りませんし、今回もならなかったのは残念でなりません。

 事故というものは無くなることはありませんし、医療が最終的な完全形態にまで進化するということもありません。なので、「医療事故か、否か」という係争はなくなるわけがないのですが、この記事のように、一方的に叩きやすい側を叩く、というのには反対です。

 最後のパラグラフの「最後には隼三を正義の味方にしてあげたい」というあたりには、原告が正義であり、被告が悪であるというニュアンスを漂わせた、思わせぶりなことが書いてあります。

 「子供を失った遺族」よりも「医師」という記号のほうに悪のレッテルを貼ったほうが、読者の共感を呼びやすいということなのかもしれませんが、そういう、遺族の発言の切り貼りをして感情に訴えるのは、報道としては間違っていると思います。

 この記事を読む限りでは、「どちらが悪くて、どちらが正義だ」というものは見えてきません。遺族は可哀相だということは良くわかりますが。

 報道機関として、この事件の取材を行い、その上で、判決の不当性を問うのであれば、裁判に出てこなかった背景や、判決に至る論理構成を記事にするべきで、それが本来の報道のあり方ですが、法律や判決の瑕疵には具体的には触れずに、遺族の発言を切り貼りして、さも、「今回も正義が実現できなかった」みたいなことを書くのは、遺族の背中から陰口を言っているようなものです。

 事件を検証し、法律や、その運用に一石を投じるのであれば、意味がありますが、そうでなければ、法律や司法をないがしろにし、事件にかかわった病院関係者らを愚弄し、遺族に対しても、横から煽るだけになってしまいます。

 主張するなら正々堂々と。そうでないのなら、客観性を保った報道をしてほしいものです。



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